【戦後74年目】上官の犠牲のもとに生き延びた元戦艦大和の乗組員が語る、壮絶な瞬間から学ぶべき事とは?

泣ける, 衝撃, 話題

「若者よ、君たちが生きるきょうという日は

死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」

八杉康夫さんは戦艦大和の乗組員としてその沈没を体験し、

上官の命と引き換えに一命を取り留めました。

今回はいまなお語り部として、

その歴史の真実を伝え続ける八杉さんがその体験記と共に語る、

これからの日本を担う若者へ送るメッセージをお届けします。

沈みゆく戦艦大和

第一波、第二波と攻撃を受けるうち、

大和の後部が白煙を上げたのが八杉さんにも分かったと言います。

なおも攻撃が続き、魚雷が的中した時には震度5にも

感じられるほど激しく船体が揺れました。

そうして、次第に大和は傾いていったのです。

砲術学校では「戦艦は15度傾いたら限界」と

八杉さんは習っていましたが、

25度、30度と船体はどんどん傾いていったそうです。

それでも戦闘中は命令が無い限り、

持ち場を離れることはできません。

その時です。

「総員、最上甲板へ」と言う命令が下りました。

軍には「逃げる」という言葉はありませんが、

これは事実上「逃げろ」という意味でした。

この時、大和はすでに50度ほど傾いていましたが、

八杉さんはこの時初めて「大和は沈没するのか」と思ったそうです。

それまでは本当に、「大和は浮沈戦艦だ」と思っていたのです。

八杉さんが「もう海に飛び込むしかない」と思ったその時、

彼は衝撃的な光景を目の当たりにします。

彼の仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、

自分の腹を切ったのです。

噴き出す血を前に、八杉さんは凍りついてしまいました。

船はますます傾斜がきつくなっていき、

90度近く傾いた時に八杉さんはようやく海に飛び込みました。

飛び込んだのも束の間、

八杉さんは沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。

その時彼の頭によぎったのは、

海軍で教わった「生きるための数々の方策」でした。

海軍で八杉さんが教わったのは、

ひたすら「生きる」ということでした。

「海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め」

「漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない」

陸軍では違ったのかもしれませんが、海軍では

「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」

などと言われたことは一度もなかったのです。

ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。

ですから八杉さんは、

この時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、

そして実践しました。

上官の犠牲

しかしどんどん渦に巻き込まれ、

あまりの水圧と酸欠を引き起こしたことで、

彼の意識は次第に薄れていきました。

その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。

戦艦大和の爆破です。

そこで八杉さんの記憶は途切れました。

気が付くと、八杉さんの身体は水面に浮きあがっていました。

幸いなことに、爆発の衝撃で水面に押し出されたようでした。

しかし懸命に泳ぐものの次第に力尽きてきて、

彼は重油がそこら中に漏れた海の水を飲み込んでしまったのです。

「助けてくれ!」と八杉さんは叫びました。

叫んだと同時に、

なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。

「この期に及んで情けない、誰にも聞かれていなければいいが…」

すると八杉さんのすぐ後ろに、

彼の上司である川崎勝己高射長がいました。

「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか?

そう思って身構えていた八杉さんに対し、

川崎高射長は優しい声で言いました。

「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」

そうして、自分がつかまっていた丸太を押し出したのです。

続けてこう言いました。

「もう大丈夫だ。お前は若いんだから、頑張って生きろ」

4時間に及ぶ地獄の漂流の後、

川崎高射長は救助を始めた駆逐艦に背を向けて、

大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。

高射長は大和を空から守る最高責任者でした。

『大和を守れなかったその思いから、死を以て責任をとられたのだ』

八杉さんはそのように思いました。

そしてこう感じ取りました。

『高射長が私にくださったのは、

浮きの丸太ではなく、彼の命そのものだったのだ』

昭和60年のこと。

八杉さんはいつもピアノの発表会などで

顔を合わせていた女性から、喫茶店に呼び出されました。

彼女は辺見じゅん氏の

『男たちの大和』を取り出すと、こう言いました。

「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」

その時の感情は驚いたなどという範疇ではなかった、

と八杉さんは振り返ります。

享年31歳

戦後、八杉さんは何とかして川崎高射長の

墓参りをしたいと思い、

厚生省など方々に問い合わせましたが、

何の手がかりも掴めずにいました。

それなのに前から知っていたこの人が、

川崎高射長の娘だとは思いもしなかったのです。

念願叶って佐賀にある、

川崎高射長の墓前に手を合わせることができましたが、

そこでまたひとつ、墓石に記されたものを見て驚かされました。

「享年31歳」と記されていたのです。

八杉さんは、川崎高射長がもっと年上の人だと思い込んでいたのです。

その時八杉さんは50歳を超えていましたが、

自身が31歳だった時を思い返すと、

ただただ恥ずかしい思いでいっぱいになりました。

そして不思議なことに、

それまでの晴天が急に曇天になったかと思うと、

まるで「17歳のあの日」が巡って来たかのように、

突然の雷雨となったそうです。

天皇も国家も関係ない、自分が愛する福山を、

そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和に乗った時の感動。

浮沈戦艦と言われた大和の沈没、

原爆の投下によって被爆者になり、そして敗戦。

そのすべてが、17歳の時に一気に起こったのです。

17歳は、現在だと高校2年生にあたります。

「最近は学校関係へ公演に行く機会もありますが、

現在の学生の姿を見ると明らかに戦後の教育

が間違ったと思わざるを得ません」

八杉さんはそう語ります。

学校の生徒たちだけが間違っているのではありません。

その前の世代の間違った教育を受けた人が先生となり、

親となって地域社会を動かしている。

八杉さんにはそのように感じられてならないのです。

その元凶はなにかと彼に問えば、

「昭和史を学ばないこと」だと答えます。

自分の両親、祖父母、

曾祖父母がどれほどの激動の時代を生きてきたかを知らずに、

いくら石器時代を学んだところで真の日本人に

なれるはずがない、と八杉さんは思うのです。

現に八杉さんが「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、

学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」

と真顔で聞き返すのだそう。

日本に対する誇り

「よく『日本は平和ボケ』などと言われますが、

毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?」

八杉さんは言います。

「確かに昔も殺しはありました。しかし、

『殺してみたかった』などと、意味もなく

殺すことは考えられませんでした」

真の平和とは歴史から学び、作り上げていくほかない。

鶴を折ったり徒党を組んでデモをすれば、

天から降ってくるものではない。

八杉さんはこのように感じているそうです。

ところが一流の国立大学の大学院生ですら

「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」

と平気で答えるのがこの国の現状だと言います。

「ならば自分で学べ」と八杉さんは言います。

自分で学び考えることなしに、

自分の生きる意味は分かるはずがないのだ、

と八杉さんは感じているとのこと。

「人として生きたなら、その証を残さなければなりません」

「大きくなくてもいい、小さくても、

精一杯生きた証を残して欲しい。戦友たちは若くして

戦艦大和と運命を共にしましたが、いまなお未来へ

生きる我々に大きな示唆を与え続けているのだ」

八杉さんはこのように語ります。

復員後長く八杉さんの中で渦巻いていた、

「生き残ってしまった」という罪悪感。

それは今、使命感に変わっていると言います。

八杉さんの一生は彼だけの人生ではなく、

生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。

「うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにいきません」

と八杉さんは言います。

「未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、

真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、

いつか戦友たちと会った時

『俺も生かされた人生でこれだけ頑張った』

と胸を張りたいと思います」

彼は迷いなくそう言いました。

いま私たちが平和に笑って暮らしていられるのは、

あの時命をかけて守ってくれた方々のおかげです。

その戦没者の方々が生きたかった未来を

生きているのが、私たちなのです。

改めて、日々感謝を込めて精一杯生きていくと共に、

少しずつでも昭和史を学んで当時のことを

もっと詳しく知りたい、と感じますね。

「若者よ、君たちが生きるきょうという日は

死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」

つらいことが起こった時にはこの言葉を思い出して、

自分を奮い立たせてみてはいかがでしょうか?

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