戦時中に行われた悲しい作戦「回天」⇒突撃したら2度と生きて戻れない人間魚雷をご存知ですか?

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絶対に生きて戻って来れない人間魚雷…

戦時中に何回も行われていた悲しい戦略なのです。

そこから得た教訓を我々は出来ているだろうか…

悲しい戦略「回天」

人間魚雷「回天」をご存知でしょうか?

第二次大戦時に使用された兵器の一つのなのだそうですが、

名の通り人間が操作魚雷に乗り込み、

艦隊に突撃し、自分の命と引き換えに

敵艦を鎮める兵器なのだそうです。

「窓一つない狭い鋼鉄の中に爆弾と詰め込まれる」

それは一体どんな気持ちだったのでしょうか・・・

戦争は、罪のない人間の命を次々と奪います。

この人間魚雷「回天」に乗る若者も、罪はなかったでしょう。

しかし…

日本国が勝つために、人の命が尊重されず、

勝つための「道具」になってしまっていたのです。

そんな私たちがあまり知らない、

人間魚雷「回天」の悲しい歴史について紹介します。

2度と生きて戻れない人間魚雷

人間魚雷「回天」は、人間もろともに体当りし、

命と引き換えに敵艦を鎮める兵器です。

つまり、一度出撃すれば生きて帰る事はできません。

この兵器により、104人もの乗務員が命を落としたと言われています。

「回天」は、空母を沈められるほどの破壊力を持ち、

昭和17年6月のミッドウェイ海戦以降に敗北を

続けたことから、この兵器の使用が検討され始めたそうです。

いわゆる「特攻作成」であるため、

当時は相当辛い状況だったのでしょう。

そして、昭和19年、海軍はこの「回天」の開発を開始します。

搭乗員が生存できる可能性を残すために、

脱出装置をつけることが条件だったそうですが、

機能上、開発することが難しく、

脱出装置を作ることは断念しました。

こうして「回天」は、乗り込めば2度と帰ってこれない

「人間魚雷」が完成してしまったのです。

この回天の訓練を行った基地は、瀬戸内海にある大津島です。

そこには全国から400人以上の若者が

「回天」に搭乗するために集まったそうです。

これに志願したのは、海軍兵学校や予科練の

出身者たちで、訓練基地に着いて、

そこで初めて回天の詳細を聞かされたそうです。

「前方部分につめられた爆薬は、

それまでの魚雷の3倍。必ず空母を沈められる」

と彼らは説明を受けました。

操縦席には自爆装置がついてきており、

気を失って前傾姿勢になれば、

爆発する仕組みになっていたようです。

つまり、たとえ命中しなくても、

命を落とす兵器に変わりはなかったのです。

そして訓練が始まった時点で、

多くの問題が発生していたそうです。

この「回天」の操縦席は、電球一つだけの

非常に狭い空間で、身動きがうまくとれず

操縦が困難だったといいます。

訓練中から不安要素の多い「回天」ですが、

上層部はこの「回天」の使用を諦めず、

特攻作戦を決行しました。

しかし、この作戦は悲惨な結末を迎えることに・・・

日本軍の敗北

そして昭和19年10月、劣勢の日本海軍は

「回天」を使用した捨て身作戦に挑みます。

「フィリピンのレイテ沖海戦で、

アメリカ艦隊に全戦力を突入させる」

というものでした。

しかし、日本軍は大敗北し、連合艦隊は事実上、

壊滅してしまったのです。

そして、海軍に残された切り札として

「回天」は強い期待を受けることになりました。

レイテ沖海戦で敗北してから2週間後の12月8日、

初の回天隊が出撃しました。

目標地域はアメリカの前進基地と

なっている南太平洋のウルシーです。

環礁に停泊しているアメリカの艦隊を標的とし、

人間魚雷「回天」が次々と動き出します。

しかし、まず目標に到達するのが至難の業だったようです。

それは、搭乗員には詳細な地図も敵艦隊に

関する情報も殆どなかったのです。

そして、この作戦によってあげられた

成果は一隻だけだったそうです。

この一隻を沈めるために、9人の若者が命を落としました。

その後も同様の奇襲作戦が行われますが、

戦果をあげることことはできなかったそうです。

しかし、大津島の基地に残された隊員たちは、

そんな非情で非効率な作戦であったにも関わらず、

多大な戦果をあげたと報告していたのです。

沖縄に上陸

昭和20年4月にはアメリカ軍が沖縄に上陸しました。

この時、すでに壊滅状態だった日本軍には、

船や航空機などは残されておらず、残り僅かな

戦力の戦力の全てを特攻につぎ込もうとします。

そんな作戦とは裏腹に回天による奇襲作戦は、

ますます成果があがらなくなってきたのです。

実は、アメリカ側が警備を整備するなどしっかりと

回天への対策をとっていたのです。

対策をとられてしまった回天は、艦隊どころか

停泊地に近づくことさえできなくなっってしまいました。

昭和20年6月までに回天が撃沈した艦船は、

アメリカ軍の資料によると、わずか2隻だったのです。

しかし、日本軍は、それでも特攻をやめませんでした。

海軍の切り札として大活躍するはずだった人間魚雷

「回天」は、作戦の開始から9ヶ月、撃沈された

敵艦は確認されているだけでたったの3隻だったと言われています。

しかし、若者の犠牲者は104名、この3隻のために

多くの若者が無駄死にすることになりました。

こうした背景を知ったユーザーからはさまざまな声が寄せられました。

ネットの声

多くの人は、

「恐ろしい戦争を2度と繰り返してはいけない」

と思われているのではないかと思います。

こんな恐ろしい戦争が、かつて起きていたのです。

日本に暮らしていると、こうした戦争の

実態について触れることはあまりありません。

2度と悲劇を繰り返さないためにも、多くの国民が、

このような悲しい作戦があったことを知るべきではないでしょうか・・・