今から約73年ほど前、米軍兵士1万vs日本兵士1人…最強の日本兵にアメリカ兵も恐怖に凍り付いた。。。。

衝撃, 話題

おそらく知らない人の方が多いはずです。

彼は教科書には載っていません。

しかし、伝説の日本兵がいたと語り継がれてきたそうです。

今回はそんなアメリカ兵も恐怖に凍り付いた伝説の日本兵を紹介します。

最強の日本兵にアメリカ兵も恐怖に凍り付いた

今から約73年ほど前、

日本は戦渦にありました。

ご存知の通り、第二次世界大戦が行われていた中、

ある一人の日本兵がものすごい伝説を残しました。

これは、決して戦争を賛美する話ではありません。

が、彼の生き様を知れば、命、戦争、

そして平和について考えさせられることになるはずです。

1920年栃木の農家に三男として生まれた舩坂弘さん。

小さいころからガキ大将でやんちゃだった彼は

文武両道、豪傑(ごうけつ)という言葉が

ふさわしい性格だったそうです。

軍人としても優れており、幅広く武道に精通していました。

舩坂さんは23歳にして軍曹として

パラオ諸島のアンガウル島に向かうこととなります。

米軍の狙いはアンガウル島を占領し、

本土決戦のための飛行場をつくること。

そうはさせまいとこの島を守っていた日本兵は約1400人、

敵軍の精鋭部隊は2万2000人という約20倍の数でした。

異名を持つほどの強力な人員が集まっている上に

航空母艦や戦艦、巡洋艦までもそろっている大部隊でした。

まともに戦ったら勝てないこの相手に

日本軍は水際作戦をするも負け戦になるのは目に見えていました。

仲間が次々と倒れ、

島の形が変わるほどの砲弾戦の中、

舩坂さんは違いました。

グレネードランチャーの筒身が真っ赤になるほど撃ち続け、

一人で200人以上撃破し、米軍を足止めしたのです。

しかし3日後、敵陣のど真ん中で左大腿部に銃弾を受け、

重傷を負ってしまいます・・・

敵陣のど真ん中ということもあり、

味方たちは舩坂さんを助けに行くことができません。

やっと軍医が彼の下にたどり着いたときには

すでに手の施しようがないほどでした。

軍医は何もいわず、自決用の手榴弾を置いて去りました。

不死身の分隊長

軍医も諦めるほどの重症だった舩坂さんでしたが、

彼自身はまだ諦めていませんでした。

負傷した足を日章旗でしばり、夜通し這って、

自軍の洞窟へと帰り着いたのです。

翌日には足をひきずりながらも

歩けるまでに回復するという驚異の生命力をみせました。

昔から傷の治りが早かったという舩坂さんは

食料も物資もまともになく、満足な治療も受けられない中、

蛆(うじ)がわかないように銃弾を化膿した部分に

埋めて点火させ炎症が広がるのを防いだりと

目を覆いたくなるような荒治療を自ら行っていました。

しかし、長期にわたるゲリラ戦も空しく日本軍はどんどん追い詰められ、

重症に苦しむ者たちが自決を望み手榴弾を求める

うめき声が夜な夜な響き渡りました。

自決を決意

舩坂さんもその後の戦闘で腹部に銃弾を受け、

蛆に体を蝕まれはじめます。

蛆に食われて死ぬくらいならとついに自決を決意・・・

この時、極度の栄養失調と失血で

視力はほとんどなかった状態でしたが、

遺書をしたためました。

したためた遺書

「親孝行できず残念です。

靖国に行ってご両親の大恩に報います。

国家危急存亡のときに

皇天皇土に敵を近づけまいと奮戦したのですが、

すでに満身創痍となりました。

天命を待たず、敵を目前にしてくやしいけれど、

すでに数百の敵を倒したので自分は満足しています。

七たび生まれ変わって国難を救わんと念願し、

いま、従容として自決します。

思い残すことはありません。陸軍軍曹 舩坂弘」

しかし、手榴弾は不発・・・

「これでもまだ死なせてもらえないのか!」

神のいたずらか、舩坂さんは腹を決めます。

ならば、一矢報いてやる・・・

敵陣に乗り込むことを決意します。

この時、米軍指揮所周辺には

歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や

高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯していました。

快進撃の始まり

数にして、米軍1万人に対して日本兵はたった1人。

戦闘初日から大小24か所の負傷、

そのうち重症だった左大腿部裂傷、左上膊部(はくぶ)貫通銃創2か所、

頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の55所、

さらに右肩捻挫、右足首脱臼という大けが。

本来ならば動くこともできないほど瀕死の状態にもかかわらず、

手榴弾6個を体にくくりつけ、

拳銃1丁を片手に3日間寝ずに這い続けたそうです。

4日目にはテント群の近くまで潜入に成功。

長時間の匍匐(ほふく)前進のために

肘や足は服が擦り切れてボロボロになり、

戦闘による火傷と全身20か所に食い込んだ銃弾の破片まで抱えている中、

彼を突き動かすのは「なにくそ!」という気持ちだったようです。

そして、ついにその時、舩坂は全ての力を振り絞り、

手榴弾と拳銃を握りしめ、茂みから立ち上がりました。

幽鬼かゾンビにしかみえない出で立ちに米兵たちは戦慄します。

しかし、あえなく頸部を撃たれ昏倒し、戦死とされました。

伝説の男とされていたこともあり、

米軍軍医は彼を野戦病院に運び安置所に置きました。

死してもなお、手榴弾と拳銃を握りしめていた

舩坂の指を1本1本ほどきながら、米兵のやじ馬たちに

「これがハラキリだ。

日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」

と語ったと言います。

奇跡の復活

ところが、3日ほどして舩坂は安置所で息を吹き返します。

これには監視の米兵も凍り付い、

敵ながら敬意を払ったそうです。

その後、米軍の治療を受けて歩けるまでに回復した舩坂は

重傷者の病棟から脱走します。

そして、戦場に散乱している日本兵から火薬を抜き取ると

1キロも離れた米軍弾薬庫まで匍匐前進し、爆破したのです。

その翌朝には日本軍の点呼に何事もなかったように参加していたという、

人間離れした回復力と根性は超人レベルです・・・

その後は捕虜としてグアムやハワイなど終戦まで収容所を転々とし、

1946年に帰国しました。

栃木の実家には45年12月の時点で戦死が伝えられていたこともあり、

舩坂自身の位牌が仏壇に立てかけられていたそうです。

誰もが幽霊ではないかと疑ったといいます。

その後、舩坂さんは自分が戦争で見てきた経験も踏まえて

アメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、

日本の発展を豊かにしていくのではないかと考え、

焼け野原となっていた渋谷駅ハチ公前の養父の地所に

1坪の書店を開きました。

これ、今では渋谷駅に来れば誰もが目にする「大盛堂書店」です。

さらに、書店経営をしながら、自ら本を出版し、

「世界中の人の役に立ててほしい」とその印税の全てを

国際赤十字社に寄付したそうです。

何度もこれまでかと思いながらも

「なにくそ!」と命を繋いできた先には

大きな平和という未来が待っていましたね。

最初は、お国のためにと闘ってきた舩坂さんでしたが、

最後には世界中の役に立ってほしいと寄付をしている彼の生き様に

平和の尊さを考えさせられます。